1994年 富士登山記

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はじめに

 本書は、筆者が1994年の夏休みを利用して行った旅行のことを書いた旅行記の第2号と言えるだろう。第1号は、1994年7月29日に出発した旅行「サイパン訪問記」である。そして本書は、同年8月26日に出発し、富士登山を楽しんだことを書いた「富士登山記」だ。

 前著「サイパン訪問記」は、旅程の4日間のことを全て書かないといけなかったので、ページ数は24ページと長編になってしまった。…さて、本書は、前著「サイパン訪問記」執筆の際の短所をできるだけ改善した。まず、文法や言葉づかいに気を付けるために、一度下書きを行ってから著作した。次に、従来の冊子の発行形式ではなく、ちゃんとした本の発行形式にした。ちなみに、文章の校正を行ったのは下書きの27年後だ。出版を大変長らくお待たせしたことをお詫び申し上げる。

 本書の内容は、もちろん富士登山についてだ。しかし、観光もしたので、本書の3分の1くらいは観光についてである。本書の執筆には、丁寧に行ったせいか、かなり時間がかかった。そのせいで、旅行の記憶をフルに発揮して思い出すことができず、本書の内容の濃さについては保証できない。しかし、富士登山ではかなりいろいろなことがあったので、ページ数は多くなった。

 さあ、本書を読んで、富士登山のきつさや楽しさを味わおう───。

第一章 出発

 1994年8月26日…。この日はいつもとは少し違う朝を迎えた。「そうだ、今日はあの日本一の富士山に登山しに行くのだった」私は目が覚めてすぐ、ハッと思い出した。そのとき、時計の針は午前5時を指していた。私達一家は出発を目前に控えて最終的な登山および旅行の準備を行った。

 時刻は午前5時30分になり、私達一家は期待と不安を胸に抱いて自動車で出発した。これから行く所は前回の旅行の時と同じ福岡空港である。私は、軽食として車内で牛乳とパンを食べた。また、昨夜は睡眠不足だったので、車中で寝ていった。

 2時間くらいで福岡空港に到着した。本来は地元熊本空港からも行けたはずなのだが、今回参加するツアーでは福岡空港での集合・解散になるのだ。したがって、九州の様々な県からツアー客が集まるのである。よってツアー名は「JTB九州」となっていた。

 到着後、私達一家は空港ビル内へと足を運んだ。最近、海外へ行くときは、いつもこの空港を利用していたので、前回までは「国際線」のビルに入って行っていたが、前述の通り今回は国内旅行だから、私達一家は今回は「国内線」のビルへと入って行った。大きい荷物を預けたら、X線で検査を受けた。天文マニアの私は、標高が高い富士山で天体撮影をしようと思っていたので、天体撮影用の高感度フイルム2本とカメラを持参してきたのだ。しかし、高感度フイルムは、X線検査を受けると、フイルムが感光してダメになって使えなくなってしまうのだ。そのフイルムのパッケージにも、赤字で「空港でのX線は絶対にお避け下さい」と書いてあった。そこで私はX線検査官に説明して高感度フイルムだけX線を避けることができた。私自身、避けることができてよかったと思っている。

 さあ、X線の検査を受けたら、あとは名古屋行きの便を待つだけだ。搭乗時刻になるまで、待合室で座っていた。しばらくして「8時発ANA222便、名古屋行きのお客様は只今より機内へ搭乗してください」と放送が入ったので、私達一家は搭乗した。私は搭乗券に書いてあった座席番号を見ながら自分の指定席へと向かった。

 「38A…、…? おや、窓側の座席ではないか!」自然が好きな私は喜んだ。前回のサイパン旅行に引き続いて、幸運にもまた指定席が窓側だったのである。果たして狭い窓からどのような自然が広がるのだろうか。

 やがて、私達を乗せた飛行機は定刻通り午前8時に福岡空港を離陸した。都会・福岡の街はみるみるうちに小さくなっていった。ちょうどその頃、機内ではスクリーンにて非常の際の説明が行われていた。離陸後しばらくすると、おしぼりが配布された。続いて、クッキーのような菓子が配られ、またスチュワーデスが「コーヒーとジュース、どちらにしますか?」と尋ねてきたので、私はコーヒーを選んだ。

 菓子とコーヒーを味わっている時だったが、「只今、岡山県上空を飛行中でございます。」と機内放送が入った。そこで私は本州に入ったことを知った。それからかなり経つと、今度は「琵琶湖の上空を飛行中」との放送が入った。私は興味津々窓から下界を見下ろすと、一見、海と見間違わんばかりの雄大な琵琶湖が広がっていた。とはいえ、日本一の湖と言われる割には小さい気もした。また、飛行機の右側の窓からは「琵琶湖大橋」も見えていたらしいが、それは残念ながら見ることができなかった。

 飛行機は徐々に高度が下がってきた。そして、午前9時10分、私達一家を乗せた飛行機は名古屋空港に着陸したのであった。ここは、今年4月に中華航空機事故があったばかりだったので少し不安だったが、無事に着陸してくれた。

 着陸後、すぐに手荷物をもって機内を後にし、空港ビル内へと進み、ツアーの集合場所に着くと、女性のバスガイドが出迎えてくれた。ちょっとふっくらされているな…、などと密かに思ったりしたが、まあそのことはさておき、添乗員とバスガイドとで人員点呼を行ったのち、一行は空港を出て貸し切りバスに乗り込んだ。座席は指定席で、私達一家は前から2列目の座席だ。再び点呼をして、バスは出発したのだった。

 出発してしばらくすると、何かしらの城が目に入ってきた。この城は着陸前の機内からも見えていたが、何も知らないのでてっきり、「名古屋城ではないか?」と思い込みそうになった。実際はそうではなく、別の城だった。

 やがてバスは、「東名高速道路」に入り、愛知県とも別れを告げて静岡県へと入っていった。それに伴い、車窓からの風景も次第に変わってきた。静岡県の特産物といえば、茶。──そう、茶畑が多く見られるようになったのである。さすが、日本一の生産を誇る静岡である。イヤというほど目についた。

 名古屋空港を出発して1時間強、ようやく「浜名湖サービスエリア」に到着した。ここは、広いサービスエリアで、公園のような雰囲気である。私達一家は、ここで昼食と休憩をとったのだ。

 バスから降りると、添乗員から昼食の弁当(うなぎ弁当)が全員に配られ、各自で昼食を始めた。この時はまだお昼前だったため、あまり食欲が出なかった。また、私はあいにく空いている休憩スペースに席をとれなかったため、段差に腰を掛けて食べた。うなぎ弁当といってもおかずが「うなぎ」だけなのであまり豪華といった感じはしない。──とはいえ、けっこう大食いな私には旨く味わうことができた。食べ終えると、売店を散策したりして過ごした。

 やがて、出発時間が迫ってきたので、バスに乗り込んで待った。全員が揃うと、バスは出発した。次なる目的地までは2時間ほどかかるという。そこで、富士登山の苦労を少しでも少なくするために、私は車内で仮眠することにした。だが、そこは神経質な私のことである。夜に眠る場合でも床についてから数十分、長いときは数時間は眠れないという不眠症は場所を選ばず私を襲った。それで結局、30分ぐらいしか仮眠をとることができなかった。

第二章 白糸の滝

 ようやく目的地に到着した。ここは、「白糸の滝」という観光名所である。

白糸の滝

白糸の滝

「おや、富士登山はどうなったんだい?」と怒られる読者もおられるかもしれないが、安心してほしい。この次の目的地が富士山だ。

 さて、白糸の滝へ到着後、私はカメラと水筒を持ってバスを降りた。外に出てまず感じたのは、涼しいということである。滝の水しぶきのせいだろうと思っていたが、実際はバス中でバスガイドが話した通り、標高900㍍の山がちにあるためであった。

 白糸の滝は高さ20㍍、幅200㍍で黒い溶岩の崖から大小百の滝が、すだれをかけたように落ちる女性的な滝である。その姿は、私がイメージしていたものとは全く異なるものであった。私は旅行会社のパンフレットを読んでてっきり、幅200㍍の滝が幅広く威勢よくあふれ出る、いうならば男性的な滝だろうと思っていたのだ。実際の滝の様子は、幅200㍍の中で部分的にチョロチョロと流れ落ちていたので「女性的」な滝であることが実感できた。しかし、「チョロチョロ流れる」といっても「音止滝」という別名があるくらいだから、そう弱い滝でもなかった。

 この幅200㍍の滝を巡った後、富士登山用の飲み水を補給しに行った。水筒を持ってバスを降りたのはこのためである。しかし、バスの中で案内された「水を補給する場所」がどこか忘れてしまったために、広い白糸の滝一帯で私達一家はさ迷ってしまったのだ。約束の集合時間も間近なのに──。ああ、情けない。結局、私の誘導で「水を補給する場所」にたどり着けたが、もう集合時間は既にオーバーしていたので急いで水筒に水を入れた。補給した水は駐車場のすぐ近くのレストランの飲料水だった。何も思わず水筒を満杯にし、駆け足でバスに戻った。バスに戻ると皆、迷惑そうにこちらを見ていたが、旅の恥は掻き捨て、気にせずに乗り込んだ。

 すぐにバスは出発し、白糸の滝とも別れを告げた。さあ、次は富士山、あの日本一の富士山へ直行だ。私は期待に胸を膨らませていた。

 私達一家を乗せたバスは、富士山へ向かっているため、次第に標高が上がっていった。それと同時に車窓からは脈々とした山々の風景も目に入り始めた。山梨県、南アルプスだろうか──。普段ならば、もう富士山が見え始めるはずらしいが、あいにく曇っていたので、その姿を見ることができなかった。空気が霞んでいたのである。なんという運の悪さだろうか、富士山の姿を見ることも楽しみの一つだったのに──。誠に残念だ。とは言いつつも、かすかに富士山の裾野を見ることができたので安堵した。

 バスは山梨県に入り、富士山も間近に迫ってきた。「富士五湖」とよばれる有名な5つの湖のそばを通っていき、車窓からもこれらの湖を見ることができた。よく覚えていないが、「本栖(もとす)湖」、「精進(しょうじ)湖」、「西(さい)湖」、「河口湖」、それと「山中湖」は見られたか覚えていないが、ほとんどの湖は運よく車窓から見ることができたのである。

 それから、バスは「スバルライン」という有料登山道路に入った。──そう、もうバスは富士山を登山し始めているのだ。傾斜も次第に急になってきた。やがて「富士山一合目」、「二合目」、「三合目」…、という看板が目に入ってきた。標高の方も1000㍍、1500㍍、2000㍍…、と高くなってきているのだなぁ、と悟った。また、道路のわきに生えていた木々も、じきに高山植物に変わっていった。そんな外を見ただけで涼しそう、いや、寒そうな感じがした。

第三章 富士山五合目

 ようやく、標高2365㍍の富士山五合目に到着した。辺りは山特有の濃い霧が発生していた。バスを降りると、身に心地よい涼しさを感じた。人によっては「寒い」とさえ感じる人もいたようだが──。

富士山五合目

 私達一家はすぐに「雲上閣」という建物に入り、3階にある「着替えるための部屋」に入って登山服に着替えた。日本一の富士の登山だからか、皆が本格的な登山家のように見えた。一方、私は暑がりなので、登山用の防寒服は着ずに行った。

 三階で着替えが終わると続いて2階で夕食だ。といってもここは山である。なので、「料理」と呼べる食事ではなく、「副食物」といった感じで、あまり見栄えのある料理ではなかった。それでも、食欲旺盛である私が食べた感想はやはり関係なしに「旨い」。もちろん普段の料理と比べれば何も言えないが──。私は登山のことを考えて食べすぎないように心がけて少なめに食べておいた。

 食事の後、たしか売店を眺めた。富士山の記念品はここにだけしかないということだったが、残念ながら時間が足りなかったので、買うことができなかった。──ああ、悔しい。それでも、最低限に登山に必要な杖(1200円)だけ買っておいた。この杖は六角柱形をしており、「五合目、六合目、…山頂」という具合に各「合目」ごとの山小屋で焼印(有料200円)を押していけるのである。また、杖の先端には鈴が付けてあって、使用中は音が鳴るのが邪魔だ。

富士山五合目

 ツアーの集合時間になったので、登山の準備万端で外に集合した。人員点呼や登山中の注意事項などの説明があった後、富士山をバックにツアーの記念撮影をした。しかし曇っていたので残念ながら富士山は写っていなかった。──さあ、いよいよあの日本一の富士山の山頂目指して出発だ!

第四章 苦労と感動──富士登山

 私は、これからどれだけ凄い経験をするのかをしみじみと感じていた。なにせ、幼い頃から憧れていたあの日本一の、日本にはこれ以上高い山は存在しない、と否定することすらできるあの富士山の山頂を極めるからである。

 先ほども簡単に述べたが、登山出発前に今回の登山の先生ともいえる「富士登山専門ガイド」の方から登山の注意事項、および高山病にかかった場合の対処の仕方などの説明を受けて、富士登山専門ガイドを先頭に、添乗員を最後尾にして列を作り、いよいよ(吉田口五合目から)登山に出発した。

 私達のツアーはゆっくりとしたペースで登山していったので、私には「遅すぎ」といえるほどだった。富士登山専門ガイドから「疲れやすい人は列の先頭の方へ行って、体力に自信のある人は後ろの方を歩いてください。」と声をかけられた。これは、高山病などで歩行が困難になった場合、当事者が列の後ろの方にいたらツアー全体がその人に合わせて歩くペースを落としてあげられず、専門ガイドに訴えるときもわざわざ先頭まで行かなければならないためである。特に子供は高山病にかかりやすいらしいので、子供たちを先頭に誘導して列を作った。私は少しだけ体力に自信があったので、列の後ろの方を歩くことにした。

 (吉田口)五合目を出発してしばらく経った。聞く話によると六合目まではすぐで、登山の「ウォーミングアップ」程度らしい。そこまでで疲れたとしたら、山頂を極めるのはまず難しいということである。──そうこうしているうちに、もう六合目の山小屋が微かに見えてきた。

 六合目の山小屋「雲海荘」に到着した。「なぁんだ」と思ってしまうほど、疲れずにここまで来れた。どうやら、何事もなく「ウォーミングアップ」をクリアできたので、今後の登山行に不安を抱く必要はなくなったようだ。

 ここでは富士山の登山道の地図が配られ、山小屋の前のベンチで5~10分程休憩した。これから先の山小屋にも、このようにベンチが設けられており、また、登山の杖に焼き印も二百円でできる。登山客にとっては山小屋は唯一の休養所になる。

 専門ガイドから「ゴー」のサインが出され、私達は再び出発した。

 「今日仮眠をとる、八合目の山小屋が見えていますよ。」専門ガイドが教えてくれた。すでに辺りは暗くなっており、少し霧がかかっていたが、山の上の方にはポツポツと光の点が見えた。──八合目はその辺りらしい。私は、(その光の点がすぐ近くに見えたので)たったそこまで登るのにあと何時間もかかるのか、と不思議に感じたが、それは距離的な感覚ばかりで高低差的な考えをしていなかったからであった。実際はクネクネとつづら折りに続く登山道が距離を伸ばしたり、急斜面を登っていくときに時間がかかるなどの影響で、大幅に所要時間が変わってくるのだ。──といった話はここでは止そう。

 私達はただ、黙々と登り続けた。もっと楽しみながら登山をしたかったが、持参した荷物が多かったためか、とてもリュックなどが重い。肩が痛くなる──。風景撮影用の一眼レフカメラ、天体撮影用の一眼レフカメラ、大型の水筒、本類…。予め荷物は最小限に留めておきたかったが、何やかんやでとても重くなってしまったのだ。ただ自分の趣味を富士山で満喫しようということばかりを考えて荷作りした私が馬鹿だった。当然、登山中は天体撮影などの趣味を満喫するヒマもない。5~10分の休憩時間でさえ、登っていくにつれて好きなことをやる気がなくなってきてしまったのである。趣味で持参した天体カメラや本などは何の役にも立たなかったことは言うまでもない。

 薄明も終了し、天の川が流れる「夏の大三角」が頭上を覆っていた。予想通りの星数の多さだった。断然、見慣れている地元熊本の星空とは大違いにだ。わざわざ天体撮影用のカメラと三脚を持ってきた価値はあったが、やはりヒマがなく撮れなかったので残念だ。登山中、夏の星座の星々は疲れている私の心を癒してくれた。これは何も天文ファンだけではないだろう。

 星空をチラチラ気にしながらも私は懐中電灯のスイッチを押しつつ暗闇の中を歩き続けた。美しいのは空だけではなかった。下界も幻想的であった。ぼんやりと雲海が広がっていたのだ。このときの「天」と「地」の美しさはどのように表現したらよいだろうか──。

 その頃だっただろうか。「歩くペースが遅い」とひとりでぶつぶつ言いながら登山していたからか、ツアーのメンバーの顔を覚えていない私は他のツアーが通りすぎていったときに誤ってそのツアーについていったハプニングがあった。暗いので顔が見えなかったせいもあることもいうまでもなかろう。そのツアーは、歩くペースがゆっくりな私たちのツアーとは違い、歩くペースが極端に速かったり、会話が関西弁だったのだ。そこから私は何かおかしいことに気付いていた。その間違ってついていった団体の方が「後ろから来ているツアーではないか」と親切にも私に声をかけてくれたので、難を逃れた。

 しばらくの間、歩くペースが速い関西方面からの団体に紛れ込んで登っていた私がふと後ろを振り返ってみると、我々のツアーは皆、遠くの方で休憩している様子が目に入った。貴重な休憩時間の間、ひとりで先行していたことになる。私は急いで皆のいるところへ戻った。戻ってみて驚いた。先ほどから少しだけ苦痛を訴えていた私の小学生の弟が苦しくて動けない状態でいるというのだ。これは高山病にかかっているのだろうが、前にも述べたが子供は高山病にかかりやすいらしいので無理もなかった。それ以外にも弟は日頃から運動をしていなかったから早々と高山病を発症してしまったのだろうか。とにかく、弟の容態変化については、母がおぶっていくことになった。

 このような出来事があったが、ツアーは標高2700㍍の「花小屋」という山小屋に到着した。我々が今夜仮眠をとる山小屋はここではないのだが、弟の高山病が深刻なので、やむを得ず弟は母はここで登山をリタイア。この山小屋でゆっくり一晩休養することになった。だが当然、ツアーは登山を続行するので、私は弟と母と別れ、父と一緒に登頂の夢を目指すこととなった。

富士山七合目 花小屋

 七合目「花小屋」のベンチに座って5~10分休憩した後、(寒くなってきたので)防寒着を着用して出発した。ここから先は、植物の生えていない険しい「岩道」になった。所々、手も使わなければならないような急斜面もあった。その状況に「観光地富士山の登山道なのにここまで整備が手つかずとは…」と思うほど、歩きにくい道だった。この七合目から八合目までの道程は想像以上に長かった。次の八合目に今夜仮眠する山小屋があるのだが、道が険しくなってきたためか、どれだけ登っても八合目は遠く、なかなか辿り着けなかった。その代わり、七合目には山小屋がいくつもあった。

 歩き始めてしばらくすると、やがて体力に自信があると思っていた私にもじわじわと高山病の症状が現れてきた。歩くのが辛く、また、息苦しくなってきたのである。とはいえ、これでも症状は重くないらしいので、「八合目の山小屋まで頑張れば仮眠がとれるので、そこまで頑張って登ろうではないか!」と自分自身に言い聞かせ、一生懸命に登った。

 限られた5~10分の休憩時間中に、私は夜空を見上げた。「おお、これは…。」登山中はチラッとだけしか見ることができないが、このとき初めてじっくりと星空の大パノラマを堪能できた。標高はもう3000㍍。いうまでもなかろう、このときの星数の多さは。星座たちは何も知らずにキラキラと輝いている。どこかで見たことがあったような気がしたが、それはプラネタリウムでの星空だった。そこで投影される星数とこのとき見えた星空が似通っていたほどに凄かったのである。この星空に心奪われたのは皆も同じで、同じツアーの方々も「今日は満天星ですな!」と言っていた。そのことからも星数の多さが証明されよう。

 ──とついつい星のことにこだわってしまう私だが、あと少し星のことについて述べさせてもらうとすれば、満天星の空を仰いで私が気付いたことは、真北にある「北極星」の位置についてだ。私の住む熊本県と比べて若干高いことに気付いたのだ。熊本県は北緯32度。一方、静岡県は同36度。したがって、北極星の高度には4度の差が生じることになるので、その差を実感できたというわけだ。ところで、前回のサイパン旅行で見た北極星は逆に熊本より見えた高度がずいぶん低かった。サイパンの緯度は北緯15度という南方にあったためであり、もちろん、このときの北極星の高度は15度であった。

 八合目の山小屋まで残り約30分という、嬉しい知らせが入ってきた。私は高山病がかなり進行して苦しかったが、最後の力を振り絞って残りを登山した。休憩時間もあまりなく、また、かなりの急勾配だった地獄の30分を耐え、午後11時頃、ようやく八合目の山小屋に到着したのである。予定の到着時刻を1時間ほどオーバーしてしまったが、私達は無事に宿泊先の山小屋まで辿り着くことができた。この山小屋は「太子館」という名称だ。

 山小屋に入る前に、山小屋の前のベンチに座って登山靴の靴ヒモを緩ませる必要があった。だが、何十人もいる私達のツアーなので、椅子が満席で簡単に座れるものではなかった。私はベンチに座れなかったので、特別に山小屋の玄関で靴ヒモを緩めて靴を脱がせてもらった。脱いだ登山靴はビニール袋に入れて持っていなければならなかった。中に入るとまず、明日山頂で食べる弁当を受け取った。それから、専門ガイドから仮眠などについての案内があった。その後、山小屋の2階にある仮眠スペースへ行った。知人からは「ザコ寝になる」と聞いていたが、実際は縦に長い二段ベッドに横に並び、2~3人で布団を1枚使用する寝方だった。私は幸いにも壁側の「一人あまり」に当たったので、1人で2~3人用の1枚の布団を使うことができた。しかも、大きい布団なので四つ折りの状態で使い、他の人たちよりもとても暖かくして眠れた。とはいえ、やはり高山なのでそれでもまだ寒かった。

 さて、私は眠りにつこうと布団に入ったが、どうも空腹で寝付けない。そこで山小屋の1階でカップラーメンを買って食べた。値段はなんと600円。標高が高ければその分値段も高くなるのだ。したがって日本一高い富士山で売られる商品は日本一値段が高い。もちろん、高い所で食べる熱いカップラーメンは最高で、払った600円は後悔しないほどだった。しかし、満腹まで食べてしまったので、控えめにしておけばよかった。

 食事を終えると2階の仮眠スペースへ戻り、床についた。その頃にはもうほとんどの人は眠りについていた。しかし、私はすぐには眠れず10分ほどかかって短い眠りにつくことができた。

 私達がわずかな眠りについているとき、日付は変わった。そしてまだ「朝」とはいえない午前0時30分、専門ガイドが私達を起こしに来てくれた。ちなみに私は1時間弱しか寝ていない。もちろん起きたくはなかったが、「富士山頂を極めるためには起きなくては」と自分に言い聞かせ、身を起こした。ここで睡魔に負けてしまうとリタイアだ。ちなみに、この時点でリタイアした人は私達のツアーではおよそ半分いた。リタイアすれば朝の7時までここで眠ることができる。

 私は外に出て、皆が集合している場所へ行った。しかし、私は何かおかしな気がした。よく見てみると、なんと荷物を全部忘れていることに気が付いたのだ。寝起きだったので寝ぼけて忘れてしまったのだろう。その後、荷物を取りに戻って安心していたら、他に軍手と懐中電灯、それに五合目で買った登山用の杖まで忘れていることに気が付いた。全て登山の必需品だ。私はなぜこんなに寝ぼけがひどいのだろう、とつくづく思ってしまった。だが、もう今度は取りに戻っていたら時間がない。仕方なく私はあきらめることにした。登山アイテムをたくさん失った私は、他の誰よりも残りの登山が困難になったことだろう。

 そうこうしているうちに、専門ガイドから「出発」の声がかけられた。辛い富士登山の後半戦のスタートだ。しかも、今日の山頂までの行程は、昨日よりもきついらしい。私は疲労に負けるまい、と自分に言い聞かせて歩き始めた。

 私は、仮眠のおかげで高山病が治ったらしく、快調に登っていけた。また、登山道も昨夜のような「地獄」の急勾配ではなく、比較的なだらかな斜面だった(写真参照)。このおかげで、私はハアハアと息切れすることもなく、あまりの余裕に、途中、登りながら持参したウォークマンで音楽を鑑賞したほどだ。

富士山登山

 ──しかし、幸せは長続きはしなかった。登っていくにつれ、再び高山病の症状が現れ始めたのだ。やがて鼻での呼吸は口へと変わり、息も深く、ゆっくりするようになっていった。きつい、苦しい、(荷物が)重い、眠い、の4つの悪魔が私を襲う。私はたまらなく辛かった。そしてわずかな休憩時間が恋しくなる。恵みの休憩時間はひとときの幸せだった。ベンチやら地面やらに腰をおろし、死んだようにして休む。だが、貴重な時間はあっという間に過ぎ、ほとんど高山病の息苦しさを解消できぬまま出発となってしまう。人によって感じ方は異なるかもしれないが、これほど富士登山は苦難なものだとは。酸素不足のために起こる登山中の息苦しさを少しでも和らげるための酸素ボンベ(酸素缶)がほとんどの山小屋で売られていたが、私は日本一の富士山を自力で登り切るためにそれは買わずに辛抱した。他の人が酸素ボンベ(酸素缶)を吸っている姿を見ると、もちろん、うらやましくて仕方がなかった。

 私は休憩時間にふと下界を見下ろした。そこにはぼんやりとした夜景が見えていた。3000数百㍍という高さから見る遠くの夜景は、スモッグや水蒸気などの影響によって霞んでいるものの、高山病で衰弱している私の心を和ませた。ついでに月光を浴びて不気味に光る雲海や遠くの山々も加わって、実に神秘的な光景を見せてくれた。もちろん、上の澄んだ夜空の星々も地上の美しさに負けていない。特に、明るい星が地平線から昇ってくるとき、厚い大気の層の影響で真っ赤に見える姿はとても目がひかれた。私はもう二度と目にしないだろうこの絶好の光景を写真に収めることができなかった。これは高山病の苦しさのせいでそんな余裕がなかったためである。

 高山病に耐えながらも必死にツアーの皆と共に登っていく私の耳に、専門ガイドからの嬉しいニュースが飛び込んできた。あと少しで九合目らしいのだ。私は八合目の長さを改めて実感したのと同時に、やっと八合目を脱出できるという喜びに包まれた。高山病の苦しさに耐えきれず、一時は専門ガイドに訴えようとしていた私に希望が戻った。そしていつの間にか九合目に入り、私は今度は跳びはねるほど嬉しい情報を耳にした。「あと数十分で山頂に着きますよ。」ゼイゼイ息をして、もう極限状態だった私は決心した。「ここからは死ぬ気ででも登っていかなければ。」

 私は山頂の方向を見上げてみた。そして唖然とした。それは、山頂までの距離があまりにも遠いのではなく、まるで高山病で苦しんでいる登山者にとどめを刺すかのように「地獄」の岩の急勾配が山頂まで続いているではないか。私はこの最後の難関に挑んだ。

 ここからの登山道は岩の急坂にロープを張って道を確保しただけのものだった。また、他のルートからのあらゆる登山者がここで合併しているため、登山者で道は渋滞していた。このため、のろのろ登山になってしまった。しかし、休憩時間が恋しかった私は逆に喜んだ。それでも、たまらなく息苦しく、常に長距離走でもしているかのような呼吸を続けていた。渋滞で止まっている状態から再び歩き出すのはとても辛かった。

 私はふと後ろを振り返ってみた。「おお、これは…。」東の地平線がなんとなく赤くなっているのに気が付いた。もうすぐ夜明けだ。そういえば、登り始めた頃に広がっていた夏の星座は、いつの間にか秋から冬の星座に変わっている。

 私は急な岩の登山道を死ぬ気でひたすら登り続けた。この九合目が一番辛かったことはいうまでもないだろう。

 そしてついに私は耳にしたのだ、「もう(間もなく)山頂だ」という言葉を。山頂の直前は急勾配だったので、すぐには山頂が見えてこなかったが、登山者の多くは歓声らしき声を上げている。私は喜んで残りの道を走った。そしてついに道は終わり、私は日本一高い富士山の山頂に到着したのだ。標高は実に3776㍍である。私は念願の富士山頂到達を果たしたのだと心中とても喜んだ。

 さて、山頂に到達するにはある程度体力がなくては無理なのだ。まして、子供はほとんど登頂は無理だと思われる。しかし、私達のツアーには、わずか8歳にして登り切った小学生がいた。彼はのちに旅館で表彰されることになる。

 山頂にはかなりの人がいた。早朝なのにもかかわらずたくさんいたのは、皆、富士山頂で美しい御来光(日の出)を見るためである。山頂はどの時間に来ても魅力的だとはいえ、やはり御来光鑑賞が人気を呼び、夜の間に登山をして日の出前に山頂に到着するコースが主流なのである。

 私は東の方角に人が集まっているのに気がついた。そう、皆、御来光を見るために良い場所をとっていたのだ。自然が好きで御来光も見逃したくなかった私は、空いている場所を見つけるなり、急いでそこを自分のものにした。

富士山頂 朝焼け

上写真のように、山頂に到着した時点でもう東の空ははっきりとオレンジ色に染まり、空全体もやや明るくなっていた。標高3776㍍という高さから見る朝焼けは、これまで見たことがない鮮やかさだ。御来光を待つ間、徐々に明るくなる朝焼けを撮ったりして待った。

 東の空を見つめ続けて約30分、いつの間にか後ろにはものすごい人だかりができていた。そして、ついに雲海から赤い光の点が現れた。そう、日の出の瞬間だ。辺りからは歓声が上がった。その後、雲海から徐々に姿を現す太陽を連続的に写真に収めた。一番前列にいたおかげで楽々撮影ができた。太陽が完全に姿を現すと、低い山々と雲海とで、言葉が出ないほど美しい光景となった。あとから添乗員から聞いた話だが、彼がこれまで添乗員として参加した富士登山のツアーの中で、この日の御来光が一番美しかったらしい。

富士山頂のご来光

富士山頂のご来光

しかし、上写真をご覧の通り、太陽は上空の薄雲を通って昇ってきたため、美しさが半減したともとれる。

 私は御来光を待つために30分も時間を無駄にしてしまったのだが、そのせいで下山開始まで残りわずか30分となってしまった。私は休憩スペースにて山小屋で渡された弁当を広げ、朝食をとった。やはり副食物ということで、まるで「猫まんま」のような弁当だったが、いうまでもなく山頂での食事は旨いものだっだ。

 食事の途中、缶ジュースの販売を見かけた。そこには熱湯に缶ジュースが入れてあり、缶は異常に熱くなっている。缶コーヒー、ウーロン茶、そしてアップルティーが売られていた。私は寒かったので、そこでアップルティーを買った。しかし、沸騰したお湯に入れてあったため、缶がとても熱く、しばらくは缶を触ることもできなかったが、徐々に冷めて飲めるようになった。ああ、旨い。この温かいアップルティーが私を癒した。

 食事をしているとき、陽の光が差してきた。そこで気付いたのだが、日の照っている場所の温度が異様に高かったのだ。それは標高が高いので大気の影響をあまり受けず、強烈な日光となっているからだろうと悟った。

 まだ食事をしている時、「JTB九州の皆さまは、5時30分になったので出発しましょう。」と、添乗員が呼び掛けた。もうなのか、早いな、と感じた。1時間もいなかったような気がしたのである。まだ山頂でやりたいことはあったというのに、もう出発なのだ。ああ、残念である。残念ながら本当の富士山の山頂(最高峰の「剣が峰」)には到達できぬままだった。その代わりに、富士山の火口は見下ろすことができた。火口の淵を通過していったので、拝見できたのである。また、火口付近には霜のようなものが降りていた。8月というのに、何という寒さである。聞いた話によると、このとき気温は2~3度だったらしい。登頂記念に、火口の淵近くの地面の砂を袋に入れて持って帰ることにした。

富士山頂

 私は、食べかけの弁当を包んで、出発の準備をした。出発時刻は、参加者の中にはまだ出発準備をせずに弁当を食べている人がいて、予定より数十分遅らせたらしい。

 そうして山頂とも別れを告げることとなり、私達のツアーは下山道に入った。この下山道には「砂走り」という砂道の下山道があり、最後の方では砂道はつづら折りになっている。「砂を走る」という意味の砂走り、つまり、より速いスピードで下山ができる道なのだ。早速下り始めると、思っていたより歩くのが困難だ。急勾配なので、足首が痛くなってきたのだ。いくら速く下れるからといってスピードを出し過ぎるのは危険で、足も痛めてしまう。

 下山を開始した私は下るのがきつくて休みたくなったが、休んだら置いていかれるので、休めなかった。苦しみの下山となっていたが、その時、美しい光景が目に入ってきた。雲海と(南アルプスの)山々である。山頂で見た時とはまた違っていて、日が昇っているので立体的に見えた。また、山々の合間に湖らしき広がりが見えていた。休憩時間に、それは「山中湖」だと教えてもらった。──そう、富士五湖の一つである。帰ってから地図で確認すると、当然ながら同じ形をしていた。

 …いつの間にか、辺りは美しい風景になっていた。山頂の方を振り返り見上げると、クネクネとつづら折りをした下山道と、赤茶色に見える富士山、そして昨夜から見え続けていた下弦の月がくっきりと見えていた。一方、下界の方を見下ろすと、神秘的に広がる雲海と、霧に包まれた山々、そして九州に似た形をした山中湖が見えていた。

富士山からの山中湖

富士山からの景色

 私は頑張って歩いた。今、何合目に来ているのかわからないのが残念だったが、とにかく頑張って歩いた。1時間ぐらい歩いたら、ツアーで集合して休憩をとったのだが、そこからはなんと山肌を挟んで昨夜宿泊した山小屋「太子館」が見えていた。ということは、まだここは八合目。先は長いようだ。休憩終了後、添乗員が「ここからは自分のペースで歩いていいですよ」と言ったので、マイペースで再出発した。

 下山道は、それまでは足が埋まるほど柔らかい砂だっだが、次第にゴツゴツとした石に変わってきた。そのせいで、歩きにくくなってしまった。…滑るのである。足元に気を配らないと危険なくらい、滑るのだ。私はそれで、3回ほど転んでしまった。

 歩きづらい下山道を時折休憩しながら、言われた通りマイペースで下山していった。そして、確か六合目で、登山の時歩いた道と合流した。ここからは登山道と下山道が一緒である。私はもうヘトヘトだったが、頑張って歩いた。

 私は道がよく判らなかったので、同じツアーの人達に付いていったら、山小屋ではなさそうな、かき氷を売っている休憩所らしき所に出た。私は正直に言ってそこがどこなのかわからなかった。登山の時も通ったはずなのに、その時は通らなかったように思えたのだ。ともかく、そこで一休みすることにした。しばらくすると、ツアーの人達が徐々にいなくなったので疑問に思い、辺りをよく偵察すると、そこはなんと登山の時にも通った六合目の山小屋「雲海荘」だったので安心した。

 雲海荘のベンチに、道を間違えたかもしれない不安を抱きながら30分ほど腰かけていた私は、急いで再出発した。ちなみに、五合目の集合場所は「雲上閣」である。集合時間が押し迫っていて、「これは急がないといけない」と思い、早歩きで歩いて行った。

 15分強ほどすると、ようやく五合目の雲上閣に辿り着いた。その時、集合時間を30分以上オーバーしていたので、実は心配だったのだ。だが、皆同じく予定より遅れてきたようなので、迷惑かけずに助かった。当初、バスの出発を午前9時としていたが、ツアー参加者が大勢遅れてきたため、午前10時出発に切り替えたらしい。そのおかげで少し時間ができたので、用を足したり富士山のお土産を販売する雲上閣の売店を散策したりした。せっかく富士山に登ったのだから、記念にお土産でも買っておけばよかった。ここでは「富士登山記念」と書かれた木で作られたハガキを自分宛てに書いて投函した。

 こうして初めての富士登山は無事、ゴールを迎えた。ここから先は、登山とセットになっていた観光旅行の記録である。

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